2010年 08月 12日
No.1067 8月12日(木):「自分に負けた」高校野球時代。 |
★このブログは毎日更新予定です。(意気込みレベル)
こんにちは。遠藤です。今日は夕食が楽しき地域のコミュニティでラッキー!でした。
さて、夏の甲子園大会が始まりました。
約30年前・・私も日大櫻丘高野球部で、甲子園を目指していました。
※私の10才先輩が全国制覇しています。
自分の代は正捕手として出場し、秋の東京大会はベスト16で修徳高に負けました。
春の東京大会は、同じくベスト16で国学院久我山高に負けました。
当時でも、東京大会は200チーム以上が参加し、早実、帝京、日大二、日大三、堀越などなどの競合がひしめいていたので、ベスト16に残るのも難しいのですが、このレベルからは強さが完全に甲子園級になります。
たしか、修徳には7対0、国学院久我山高には6対4で敗れました。
※この時、国学院久我山高は、直前の春の甲子園大会で準優勝高となり凱旋した、二松学舎高を撃破して勝ち上がってきたというレベルの高い状態。
最後の夏の大会は、第4シード高で出場しましたが、初戦で創価高に延長戦の末、1対0で負けてしまい、私の高校野球生活は終了しました。
創価高にはプロ野球で活躍した小野投手(近鉄→西武)がいました。
私はこの最後の試合の最後の最後で、自分に負けました。
実は、私は春の大会くらいからスローイングに悩んでいました。
野球をやっていた方ならわかるのですが、ボールが上の方に抜けてしまうのです。
捕手からセカンドに投げるとして、送球がセンターの方に力無くすっぽ抜けてしまうのですが、これが予期せぬタイミングで発症するのです。
春の大会は何とか乗り切ったのですが、その後も症状は一向に改善しませんでした。
途中からは、ゴルフでいう「イップス」のようになってしまい、怖くてボールが投げられないのです。
「強肩」が取り柄だった私の守備力は、力無く変容してしまいました。
さらに、大会の1ヶ月前には大腿後部をブチッと肉離れしてしまい、(幸い、大会には間に合いましたが)、気持ちは沈み、私は心のどこかで「大会が終われば、悩みから解放される・・」と考えていました。
野球の神様とは非情なものです。
なんと、創価高の試合の10回裏、2アウト、ランナー1塁で、私に打席が回ってきたのです。
しかし、この重要場面で、私は代打を送られることになります。
私は直訴も抵抗もすることなく、ベンチに下がりました。
代打に出た後輩のセカンドフライで試合は終わりました。
試合後、仲間は泣いていましたが、私は涙の1つもでませんでした。
仲間の涙(怒り)は、上級生のプライドもなく、戦闘を放棄した私に向けられていたのではないかと、何年も経ってから気づくに至りました。
※もちろん、当時、そういうつもりがあったわけではありません。
現在、子供たちがスポーツをやっていますが、私は「お父さんはスポーツでは負け犬で終わった」と正直に伝えています。
彼等にはそうなってほしくないからです。
夏の甲子園が始まると、「何故、あの時、自分は打席に向かわなかったのか・・」という感情が、情けなく恥ずかしく思い出されます。
でも、野球の神様からしたら、「お前なんか、打席に立つ資格がない!」ということだったのだと思います。
だから、社会人生活では逃げない!
※当り前だけど・・。
そう、自分自身を戒めております。
おしまい!
*****************
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※以下の広告は私の意思とはまったく関係なく勝手に表示されております。
こんにちは。遠藤です。今日は夕食が楽しき地域のコミュニティでラッキー!でした。
さて、夏の甲子園大会が始まりました。
約30年前・・私も日大櫻丘高野球部で、甲子園を目指していました。
※私の10才先輩が全国制覇しています。
自分の代は正捕手として出場し、秋の東京大会はベスト16で修徳高に負けました。
春の東京大会は、同じくベスト16で国学院久我山高に負けました。
当時でも、東京大会は200チーム以上が参加し、早実、帝京、日大二、日大三、堀越などなどの競合がひしめいていたので、ベスト16に残るのも難しいのですが、このレベルからは強さが完全に甲子園級になります。
たしか、修徳には7対0、国学院久我山高には6対4で敗れました。
※この時、国学院久我山高は、直前の春の甲子園大会で準優勝高となり凱旋した、二松学舎高を撃破して勝ち上がってきたというレベルの高い状態。
最後の夏の大会は、第4シード高で出場しましたが、初戦で創価高に延長戦の末、1対0で負けてしまい、私の高校野球生活は終了しました。
創価高にはプロ野球で活躍した小野投手(近鉄→西武)がいました。
私はこの最後の試合の最後の最後で、自分に負けました。
実は、私は春の大会くらいからスローイングに悩んでいました。
野球をやっていた方ならわかるのですが、ボールが上の方に抜けてしまうのです。
捕手からセカンドに投げるとして、送球がセンターの方に力無くすっぽ抜けてしまうのですが、これが予期せぬタイミングで発症するのです。
春の大会は何とか乗り切ったのですが、その後も症状は一向に改善しませんでした。
途中からは、ゴルフでいう「イップス」のようになってしまい、怖くてボールが投げられないのです。
「強肩」が取り柄だった私の守備力は、力無く変容してしまいました。
さらに、大会の1ヶ月前には大腿後部をブチッと肉離れしてしまい、(幸い、大会には間に合いましたが)、気持ちは沈み、私は心のどこかで「大会が終われば、悩みから解放される・・」と考えていました。
野球の神様とは非情なものです。
なんと、創価高の試合の10回裏、2アウト、ランナー1塁で、私に打席が回ってきたのです。
しかし、この重要場面で、私は代打を送られることになります。
私は直訴も抵抗もすることなく、ベンチに下がりました。
代打に出た後輩のセカンドフライで試合は終わりました。
試合後、仲間は泣いていましたが、私は涙の1つもでませんでした。
仲間の涙(怒り)は、上級生のプライドもなく、戦闘を放棄した私に向けられていたのではないかと、何年も経ってから気づくに至りました。
※もちろん、当時、そういうつもりがあったわけではありません。
現在、子供たちがスポーツをやっていますが、私は「お父さんはスポーツでは負け犬で終わった」と正直に伝えています。
彼等にはそうなってほしくないからです。
夏の甲子園が始まると、「何故、あの時、自分は打席に向かわなかったのか・・」という感情が、情けなく恥ずかしく思い出されます。
でも、野球の神様からしたら、「お前なんか、打席に立つ資格がない!」ということだったのだと思います。
だから、社会人生活では逃げない!
※当り前だけど・・。
そう、自分自身を戒めております。
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by fitnessbiz-01
| 2010-08-12 22:10