2018年 01月 13日
No.3779 1月13日(土):「学長に訊け!」Vol.224(通巻414) |
※毎週土曜日は「学長に訊け!」です。
【今回のご相談】
「遠藤さんはよく『モチベーションなんて言っている時点で終わっている』といわれます。たしか、年末のFBL大学大納会でもいわれていたかと思います。私の好きなフレーズの1つです。が、社内に戻れば、新春から『部下のモチベーションを上げるのが上司の仕事だ』という上司の訓示がありました。改めて、何故、そう考えるのかを教えてください」
【現場たたき上げの遠藤からのアドバイス】
簡単な理屈です。
例えば、私はカレーが好きです。
では、カレーを食べるときに「モチベーション」が必要でしょうか?
まったく必要ありません。
バスケ観戦に行くときも同じです。
同じく、まったく必要ありません。
単純にそれだけのことです。
【今回のご相談】
「遠藤さんはよく『モチベーションなんて言っている時点で終わっている』といわれます。たしか、年末のFBL大学大納会でもいわれていたかと思います。私の好きなフレーズの1つです。が、社内に戻れば、新春から『部下のモチベーションを上げるのが上司の仕事だ』という上司の訓示がありました。改めて、何故、そう考えるのかを教えてください」
【現場たたき上げの遠藤からのアドバイス】
簡単な理屈です。
例えば、私はカレーが好きです。
では、カレーを食べるときに「モチベーション」が必要でしょうか?
まったく必要ありません。
バスケ観戦に行くときも同じです。
同じく、まったく必要ありません。
単純にそれだけのことです。
そもそも論として「モチベーション」なんて必要ないんですよ。
「モチベーション」という言葉が必要以上に美化されるのは、その背景に「モチベーションが低い」という前提が存在しているからです。
では、何故、「モチベーションが低い」のか?
それは嫌々、我慢しながら仕事をしているからです。
だから、いちいち「モチベーションを上げる」という作業が必要になってくるのです。
が、嫌々やっているような仕事が最大成果になるでしょうか?
なるわけがありません。
やりたくもないことを、モチベーションを上げて取り組んで、しかも、最大成果が出ない。
だから、「終わっている」のです。
もともと私は「モチベーション」という言葉に違和感がありました。
前職時代、有名な「貴社社員のモチベーションを上げます」みたいな会社から営業があってトップが受けようとしたので、全力で阻止した覚えがあります。
理由は2つで、まずは「モチベーションは自分で上げるものだ」という信念があることです。
「貴社社員のモチベーションを上げます」なんて言っている時点で「情弱対象ビジネス」だと思います。
2つは、こちらが重要なのですが、本来、「モチベーション」というのは「動機づけ」という意味だからです。
「動機づけ」という観点なら「モチベーション」は超重要です。
が、いつしか「モチベーション」は「やる気」という意味で使われています。
「モチベーション」と「やる気」は違います。
だから、「モチベーションを上げる」なんていう日本語はおかしいんですよ。
「動機づけを上げる」とは言わないでしょう。
と、このようにそもそも意味がないし、使われ方も滅茶苦茶。
そもそも、本件も新年早々雄弁に語っているその上司が、部下スタッフのモチベーションを下げているわけじゃないですか。
このように「モチベーション」という言葉は、意味もわからずに便利に使われているだけに過ぎません。
だから、トータルな意味でも「終わっている」のです。

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by fitnessbiz-01
| 2018-01-13 18:08