2019年 03月 02日
No.4192 3月2日(土):「学長に訊け!」Vol.250(通巻440) |
※毎週土曜日は「学長に訊け!」です。
【今回のご相談】
「遠藤さんはよく『中庸が大切だ』といわれています。それは理解できるのですが、一方で突出した存在がいなくなるということはないでしょうか。全体が平均化してしまう、平均点になってしまうことを懸念しています」
【現場たたき上げの遠藤からのアドバイス】
「中庸」は「偏りがない」という意味です。
「偏り」は「片寄り」と捉えてもらっても結構です。
ヴィーガンといわれる人たちが精肉店を襲撃しているのです。
誰がどう見ても「偏っている」でしょう。
ちなみに私はヴィーガン云々はまったく問題にしていません。
個人的にやる分には何の問題もありません。
この類いの問題はその他すべてがそうですが、「他人に押しつけてくること」「他人にすすめてくること」が問題なのです。
孔子の言葉に「中庸は徳の至れるものなり」というものがあります。
「中庸=徳」
「徳=人間的成熟」です。
これを裏返せば「偏った人=人間的未熟」ということです。
この時、「徳は孤ならず必ず隣あり」という格言もあります。
「徳のない人は孤立し、周囲の人が離れていく」という意味です。
つまり、「偏った人は孤立する」のです。
誰もが「孤ならず必ず隣あり」の方が幸せでしょう。
だから私は「偏ってはいけない」と強調するのです。
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【今回のご相談】
「遠藤さんはよく『中庸が大切だ』といわれています。それは理解できるのですが、一方で突出した存在がいなくなるということはないでしょうか。全体が平均化してしまう、平均点になってしまうことを懸念しています」
【現場たたき上げの遠藤からのアドバイス】
まず「中庸」は「平均」という意味ではありません。
これが大前提です。
「偏り」は「片寄り」と捉えてもらっても結構です。
FBL大学の講座では以下のスライドで「中庸と偏り(極端)の違い」を説明していますが、我ながら的確に表現できていると思っております。
「突出した存在がいなくなる」ということですが、上記の図でいえば「中庸の上部」の位置で突出すればいいわけです。
所謂、「リーダーのポジション」です。
こう捉えれば、それが平均化につながらないことはご理解いただけるのではないかと思います。
が、「中庸」で突出するには「当たり前のことを言い続けること」が求められます。
面白くも何ともありません。
だからなのか、単に目立ちたいのかわかりませんが、多くの人は「際(きわ)」の位置で突出しようとします。
それが「独自の主張」です。
「際(きわ)」で突出するには「人と違うこと」を言えばOKです。
そして「それが如何に正しいか」をできるだけ目に見える形で証明することができれば確実に信者は増えます。
私は一昨日に配信したFBL大学の講座内でも「正しいか正しくないかではなく、偏っているか偏っていないかを考える方が先である」と述べたのですが、本人たちにはそれがわかりません。
わかりやすい例を示します。
昨年あたりからフランスでヴィーガンテロが起きているのは皆さまもご存知だと思います。
ヴィーガンといわれる人たちが精肉店を襲撃しているのです。
誰がどう見ても「偏っている」でしょう。
しかし、本人たちは「自分たちが正しい」と思い込み、信じ込んでいます。
「間違っているのは自分たち以外だ」「わかっていないのはあなたたちだ」というスタンスです。
「間違っているのは自分たち以外だ」「わかっていないのはあなたたちだ」というスタンスです。
自分たちの考え方を認めさせるために「ヴィーガンビルダーは肉を食べていないから、肉を食べる必要はないんだ」なんていう極端の極致のような事例を持ち出してきます。
そして常套句は「騙されている」「目を覚ませ」です。
個人的にやる分には何の問題もありません。
この類いの問題はその他すべてがそうですが、「他人に押しつけてくること」「他人にすすめてくること」が問題なのです。
これは「教育」ではなく「思想の押しつけ」「正しいの押しつけ」だからです。
私は常に言っているのですが、「両側に意見がある」ということは「両方とも正しいとはいえない」ということです。
反証が成立しないことを「正しい」と言えるのは「その一面」しか見ていないからです。
※だから、上記の図のように「対立」になる。
孔子の言葉に「中庸は徳の至れるものなり」というものがあります。
「中庸=徳」
「徳=人間的成熟」です。
これを裏返せば「偏った人=人間的未熟」ということです。
この時、「徳は孤ならず必ず隣あり」という格言もあります。
「徳のない人は孤立し、周囲の人が離れていく」という意味です。
つまり、「偏った人は孤立する」のです。
誰もが「孤ならず必ず隣あり」の方が幸せでしょう。
だから私は「偏ってはいけない」と強調するのです。
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by fitnessbiz-01
| 2019-03-02 17:36